癌や難病が治る人と治らない人の重要な共通点:思考パターン【闘病ブログ考察】


癌や生活習慣病などの難病になってしまったら必ず完治させたいと、今までの生活習慣を後悔し、切に願う闘病者は多いはず。

そしてほとんどの闘病者に、病気に気付いた時、それがたとえステージIVでも治るチャンスは与えられている、と感じる。それもとくに若年の闘病者の場合に。

若年の闘病者は進行が速いからあっという間だとよく聞くが、私は逆だと思う。年配の闘病者こそ老衰の問題がどうしても解消できないのでそれこそチャンスがほぼないに近い。

なぜなら、苦しい治療むなしく亡くなってしまう人と、厳しい状況でもよくなる、また治る人の間には多くの場合、共通点がある、と感じるから。いろいろな方の闘病ブログを読み込んで私が考えたことを書いてみます。

まず治る人には幸運の他にいくつかのパターンがある。

1.思考パターン(客観的思考ができる、高度な思考トレーニングができている)
2.基礎体力
3.一点集中力、なおかつ影響力
4.生に執着がない

今日はその一番重要だと思うところ、1の闘病者の思考パターンについてです。

今回は「病気になってしまった」けど「生きたい人」が対象です。生に執着して死にたくない、と思っている闘病者の考察。

A思考) 亡くなってしまう人の共通点。

医師、家族、ネット、本から治療に関する情報を集める。⇒片っ端から読む。⇒書いてあることを実行する、または医師や人に勧められたことを実行する。⇒これを永遠に繰り返す。⇒いつか体力がなくなって終わり。

B思考)治る人の共通点。

過去の生活習慣をじっくり振り返る(原因を探る)。⇒医師、家族、ネット、本から治療に関する情報を集める。⇒その中から読むもの、読む情報を選ぶ。⇒選んだ本を買う。⇒選んだ本を読み比べ、考える。⇒真実だと自分が信じたもののみを実行する。⇒これを永遠に繰り返す。⇒生存の確率があがる。

やっている行動、そして結果は同じに見えるかもしれません。しかし天と地の差があります。同じ抗がん剤を受けることに決めた人でもA思考からの人とB思考からの人では明らかな差があります。凡人と一級思想家ぐらいの差がある。

上記のAとBの行動は一例にすぎませんが、違うのは、一言でいえば思考パターンです。Bのほうは医者でも誰が言ったことでも素直に信じず、検証したり考えた上で選択しているということです。

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ではAとBの間にはどんな差がどれぐらいあるのか?なぜAは死に、Bは生き残るのか?二つほど例をあげましょう。

1.スーパーの肉の例

スーパーには毎日当たり前のように大量の肉がならんでいます。
ほとんどの人はこの肉がどこから来たのか、どんな苦しみや残酷な行為を経てこのスーパーにこの肉が並んでいるのかなどは想像もしません。

ただそこにある肉の切れ端を見る⇒今日の料理を思い浮かべる⇒買う⇒調理して食べる。(思考Aの人)

これを盲目といいます。
世界には知りたくない不都合な真実が蔓延していますから、意識すると気分を害したり悲しくなる。だから物理的には動物を殺し、その筋肉を切ったものと知っていても、わざとそれは考えない。または都合よく考える。

だって考えなくても、または考えない方が肉をおいしく食べれるのだから。
え?動物の苦しみ?動物が直接「苦しい」って言ったわけじゃないし。魚には痛みを感じる器官がないらしいし。
あとあと私たちの子孫が環境問題に直面して大変な思いするって?そんなこと知らな~い。考えない。偉い科学者がなんとかしてくれるだろうし、私は皆と一緒に肉を買っておいしく食べてる方が幸せ。

ではスーパーの肉の切れ端に「病気」を、偉い科学者を「医者」に切り替えて考えてみましょう。

病気になる⇒受診する⇒医者に言われたこと、同じ病気の人の情報を見て同じようにやる。(思考Aの人)

だって知りたくない不都合な真実のことを考えると気分を害するし不安になるし怖くなる。なるようにしかならないし、なってしまったものは仕方ない。なるようになるさ~。でも神社でお祈りは熱心にしておこう(思考せずに簡単にできるから)パンパン!神様、病気がなおりますように!
それに医者や医療技術でだいたいのことは頼れるし、薬もある。私は皆と同じように治療をがんばるゾ。身体の中でエラーが起きているのは感じてる。でもそれが何か、知るのは怖いし考えるのも面倒だし時間がかかる。ストレスだって病気の元だし。それより楽しく幸せな時間をなるべく共有して生きる!

 

ではB思考の人はスーパーの肉をどう考えるか?(あくまで一例)

この肉は健康に良いのだろうか悪いのだろうか?一体誰が作っていて、どこから来ているのだろうか?食べすぎると身体に悪いとはどの程度なのか?なぜ高い肉と安い肉があるのか?疑問だ、あとで調べてみよう。

結果、人間と家畜の比率、家畜を育てるのに必要な食糧の数などの情報、また家畜の大量生産と環境問題はどうかかわっているのか、どのような環境でどんな食べ物を与えられて育てられているのか、その家畜の一生は悲惨なのかそうでないのか。(家畜大量生産が及ぼす影響についての肯定的な意見はほぼ皆無であることも気づくはず)ではなぜ、人間は肉を食べるのか。
昔の肉と今の肉の何が違うのか。などなど、エンドレスに出てくる疑問について情報を探すでしょう。

自分の身体は、自分が食べたものが食べたものでできている。

調べている間に、こんな名言にも出会うかもしれません。途中で肉だけじゃなく食べ物全体へ視野が移ったりもします。
もちろん、読む本も手あたり次第ではなく、吟味します。著者の情報、たとえば何の専門でどこで働いている人なのか、どのような視点で誰に向けて書いているのか、いつ書かれたものか、情報源はどこか、実践か研究かまたは実体験か。そして本の内容が信頼に値するか。

そして選んだ本を読みながら共感したり、新しい考えや情報に気付く。そしてそれをもとに自分考える。

後日、スーパーに行ったら彼/彼女はどんな行動をするでしょうか?
目の前にある肉を「今日の夕飯に~♪」で決めるだろうか?
肉がどこから来ているのか、この肉の動物はは何を食べて生きたのか、得た情報をもとに想像をめぐらせないか?
その結果、肉を買わずに別のものにしようと思うかもしれないし、肉を食べる頻度を低くしてたまに、高級だけど放牧で育てられて質のいいお肉を買おうと思うかもしれない。

A思考の人とB思考の人が買ったお肉が結果、たまたまその日は同じだったとしても、一連の行動、また未来の行動は全く違うものになってくると思いませんか?
スーパーの肉ではなくても、ふと頭によぎった事柄について思考できる能力が違うのです。そしてそれは突然できるものではなく、長年、訓練をしないと鍛えられません。


2.完治した人の本の例

完治した人や権威ある医師の書いた本などを買って情報を漁ると、その治療方法や食生活が千差万別であることがわかります。
たとえばある癌患者の方は癌のエサになるからといって厳格な糖質制限をし、ある患者の方は、糖質制限しても足りなければ身体が作ってしまうから意味がないと思い、ほとんど糖質制限しなかった。でもどちらの患者も治ったと言っている。こんな情報を手にして、どれが正しいのだろう!?って思うこともありますよね。

そしてその理由をきっとこう思うはず。

治る方法がひとつでないのは身体の条件が違うからだ。たとえば男と女、歳、他の疾患があるか、生活環境、遺伝など。だから治った人は運よくいい医師に当たったり、それぞれの身体に合った治療と生活を選択したのだ。

それもあるだろうし、そういう運を味方にして治る人も中にはいるだろう。でも私に言わせれば一番大事なのはそれじゃないぞ。

肝臓がんが治ったと本を書いているムラキテルミさんという方は、きっと最初は運がよかったのだろう。あの方は癌発覚当時、Aの部類だった。なのにそれが功を奏した。

でも彼女はその後まもなく、一番大事なことに気づいたのだろうと思う、彼女は運を味方につけたうえに、その後の行動をB思考に変えた。これがよかったのだ。今は完全にBの人だ。だから10年近くたっても再発しないのだ。

でもあの本を買った別の闘病者が、「そうか、リンゴ人参ジュースか!」と思って実行したらどうなるか?まあ助からないよね、と思う。だって完全にAの思考パターンの人だもん。

なんで最初、ムラキテルミさんの癌がなくなったのか?物理的な理由もあったらしい。

ある医者がいうには、彼女は内臓のがん+すでに閉経していたという幸運な身体の条件があった。リンゴ人参ジュースは自然のものとはいえ、あれだけ毎日摂取すると相当に糖質が高い。だから女性系疾患(乳がんなど)の患者には物理的には逆効果らしい。
実際、リンゴ人参ジュースを飲んでたら健康な女性が子宮癌になったという言及もある。

何を信じるかはその人次第だけれども、これは一例としてとらえてほしい。

ムラキテルミさんの本を買って、盲目に「自分もこれさえやれば!治るかも!」と信じ、りんごニンジンジュースを実行するAの思考パターンの人は、
「りんごとにんじんジュースがなぜ肝臓がんによかったのか?」
「なぜこの人に効いたのか?」
「何か自分の身体の条件と違うところがあるか?」
「りんごに多い糖質は害にならないのか?」
「もしかしたらりんごジュース以外に組み合わせた方法で彼女が助かったのではないか?」
などといったエンドレスで出てくる疑問、つまり本の内容をいちいち「疑う」または「自分で考え直す」能力が欠けているのだ。致命的だ。

そして自分で思考できない人はどの本を読んでも、どの情報を聞いても致命的なこのA思考サイクルでしかものを考えられない。

「調べるものは何でも調べ、できることはなんでも試してみた」という記述をよく見るけれど、ああ~もったいないなと思う。こういう人は助からないだろう。
だって書いてあること、聴いたことを「試して」いるだけだから。試行錯誤の上に「確信した」状態でないからだ。

B思考に近づくには「調べる」「勉強する」「読む」ことと、「自分で考える」ことは全く別ものだという認識が必要である。これが助かる確率を大幅に上げる第一歩だ。

さらにちょっとつっこんでみれば「調べまくった、聴きまくった」という人の情報は、実は井戸の中の蛙状態であることが多い。
だってさ、英語の情報は読んだ?まさか日本語だけで全部調べたと思ってる?語学ができなくたって、今はある程度理解できる翻訳だってあります。
さらには「癌」以外の情報、知識は読んでる?たとえば身体のメカニズムを学ぶ生理学とか生化学とか解剖学とか。
それは医師がやるもんだ、と思っていたらまあ、助からないですよね。

もちろん、私たちの使える時間は限られているわけだから、すべてをきっちりで考えるのは不可能です。だからこそ自分の過去や身体の状態をじっと観察し原因を推測し、また参考にする書物、考える優先順位の選択をしていくことが大事。

病気になったとして、まず闘病ブログから分析するのか、治療に関する論文を読むのか、英語サイトにいって最新情報を探すのか、また病気の原因を探るために過去の生活を徹底的に洗いなおすのか、身体のメカニズムを知るために解剖学や生化学を学ぶのか、また東洋医学のアプローチを考えるのか。

選択肢はたくさんたくさんある。しかしこればかりは人の真似はできない。意味がない。人に簡単に影響されると助からない。と感じます。

以上が私が考えて出した、難病が完治する大きな条件の一つであるという結論です。

私なら・・まず下記の闘病ブログから読んでいくかな。すでに病気になってしまった人だけでなく、健康な人の健康管理にも非常に役立つオリジナルな知識が学べます。

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