ザルツブルクとモーツァルト


2018年3月、初めてザルツブルクを訪れたときの感想です。

1.岩と家
2.ザルツブルクとモーツァルト
3.モーツァルトの商品化

岩の存在感にも圧倒されましたが、それよりも、想像していたよりも、はるかにはるかにモーツァルトの存在感が大きかったのが一番の驚きでした。

一つの都市が(それがどれぐらいの大きさであれ)こんなにも一人の、しかもすでに200年以上も前に亡くなった人の影響を受けているなんてザルツブルク以外にあるでしょうか?

ザルツブルクとモーツァルト どころか モーツァルトのザルツブルク のほうがしっくり来そうな。バッハゆかりのライプツィッヒでも全体ではないし、バイロイトだってワーグナー一色になるのは音楽祭がある一定期間だけだし

それだけモーツァルトの業績が、現在も音楽会を逸脱しているという証なのかもしれません。

良い機会なので、ザルツブルクとモーツァルトの関係について考察したあと、初めてのザルツブルク訪問のあいだに、モーツァルトにについて個人的に感じたことをまとめてみます。

1.モーツァルト時代のザルツブルクの状況は?

一言でいえばとても悲しい時代でした。絶対的な権力として君臨していた大司教の独裁体制、政治はなにもかもたった1人の手腕にかかっていました。大変ですね。

モーツァルトが生まれた1756年は戦争(7年戦争)があり、1764~1770年にかけては食糧不足、その影響で物価は上昇し、店は廃業に追い込まれる・・という悪のスパイラル。
更に深刻な人口減少の傾向にありました。この原因としては食料難の他にも「新教徒の追放」と「風俗取り締まり法」の二つの影響が大きいです。つまりカトリックを信仰する者以外は出ていけと追い出したことと、男女の接触や露出を必要以上に禁止したことです。劇場訪問まで男女別にしたとか、ちょっとやりすぎ感満載です。
人口1万6千人の小さな場所で息のつまりそうな取り締まりに感じます。1

 

2.モーツァルトとザルツブルク大司教の関係は?

モーツァルトが生きた間にその座についたザルツブルクの大司教は2人です。父親が宮廷楽団に勤めていたことから、大司教との交流は幼少期からありました。一人目の大司教は、数々の風変りな政策からの経済危機や風俗取り締まりなどについては批判されるべき点が多々ありますが、芸術を高く評価していました。そのためモーツァルトに多額の援助を行い、作曲も発注しました。

しかしその後、1772年に大司教が交代します。この人は一人目と真逆の啓蒙主義者。それまであったモーツァルトに対する援助も減ってしまいます。

1781年、ウィーンにいたモーツァルトにこの大司教は”ザルツブルクに帰ってきなさい”命令を出します。しかしモーツァルトはきっぱり拒否→大司教は彼をあっさり解雇。ザルツブルクから追い出してしまいました。
芸術に理解のない大司教の、ミサは45分以上にわたってはいけないなどの強制的な掟がモーツァルトの創作の自由を奪い、結果命令に背くことにつながったのでしょう。
その後、モーツァルトがザルツブルクの実家を訪れたのはたった1度、1783年のみでした。

上記のまとめとして、モーツァルトは特に生まれ故郷ザルツブルクに愛着や執着はもっていなかったと感じます。若くで亡くなったこともその一因でしょう。むしろ晩年1人でザルツブルクで過ごした父親のほうに郷土の愛着があったのかも。

一方で、

非常に住みにくい衰退期であった当時のザルツブルクで、音楽の才能を見出されてから家族ぐるみで恩恵を受け、膨大な費用のかかる旅に何度も出れていたことは独裁体制下での幸運です。幼少期はかなり優遇された状態だったのですね。さすが神童。

 

3.モーツァルトの生家と実家(住居)についての感想

ザルツブルクの生家と実家、そしてもう一つ、去年行ったウィーンにあるモーツァルトの住居の3つを入れた感想。ザルツブルクとウィーンの住居ではどちらもオーディオガイドを持って回れるようになっていました。しかしその内容は全然違う。

ザルツブルク住居のほうのオーディオガイドは、おもにモーツァルトの音楽が流れるものだったのが残念でした。それ、ユーチューブとかでいくらでも聴けるから!ここでしか聞けない、見れない情報や解説をもっとお願いしますよ、と思いました。しかも部屋の中に音楽が流れていたのに、さらにオーディオガイドからも音楽が流れるとかはさすがに改善してほしいかも。

音楽ばかり流すのはきっとターゲットが、”旅行のついでに見に来た人”で”モーツァルトを理解したい人”ではないからですね。でもモーツァルトと切り離せない”旅”については詳しい解説と映像があったのがよかったです。

しかしこれは、ザルツブルクの住居に関してのモーツァルトの情報が少ないからかもしれません。旅ばかり出ていたことで、この住居との関係が薄かったとも言えます。


逆にウィーンの住居では、モーツァルトがここでどのように生活をしていたのかを重点的に知ることができ、考察も多々入っていて当時の状況が思い浮かぶようでした。

”この窓から見える景色は、モーツァルトが見た当時のものとほぼ変わっていないだろう”とか流れるんです。地味に感動したのは私だけ?展示物は少なかったけど、面白いものでした。演奏家によってはウィーンの方がザルツブルクよりもモーツァルトを近く感じれるかもしれません。

一方、モーツァルトの生家は住居よりこじんまりとしていたけど、さすがに、この部屋で生まれたっていう場所なだけに重みがありました。楽器以外にも台所や、持ち物などの展示も豊富で”本物感”というか、ここであのモーツァルトが生まれて、育ったんだっていう感動がありました。

ザルツブルクの2つの家はモーツァルトだけでなく、家族やその周りの人たち、または所有した楽器などについても詳しく展示されており、歴史的にも広く浅く知れるようになっていたのがよかったかなと思います。

 

4.モーツァルトの金銭管理能力について考える

3つの住居を回りながら一番思ったことはモーツァルトの金銭感覚について。
モーツァルトの生家の、装飾品の展示場にこんな言葉がありました。

彼は、”良いもの、本物、美しいものは何でも”手に入れたがった。2

 彼の贅沢ぶりは父親も驚くほどで、経済力目いっぱいのところに住もうとした結果10年で11回も引っ越したことや、社交や宮廷への出入り、毎朝床屋を呼んで身なりを整えたり、貴族並みの馬車を持ったこともあるなど並々ならぬ浪費家ぶりでした。

2年住んだウィーンの住居には寝室の天井に教会で見るような壁画があり(彼が依頼したわけではない)、ビリヤード台があり、またお手伝いさん専用の部屋もありました。

モーツァルトは破格の高給取り(当時の平均年収の5~7倍)だったにもかかわらず、収入をはるかに超えた過大な支出をしていたのです。それは多くの借金依頼の手紙が残っていることから事実とされています。最後まで手を差し伸べた優しい人もいたのに、晩年はどうしようもない状態でした。

妻コンスタンツェが浪費家だったと言う人もいますが、私はそうは思いません。彼女はむしろ堅実だったと思います。モーツァルトの死後、莫大な借金を数年で返済したことが主な原因はモーツァルトの浪費であったことを示しています。モーツァルトが早死にした最大の原因が、莫大な借金からの困窮とストレスだった可能性が高いことは本当に残念です。

なぜモーツァルトは絶望的なまでに金銭管理能力が欠けていたのか?

幼少期のモーツァルトを想像すればおのずと見えてきます。大司教に優遇され神童として各地を旅行し、豪華な宮殿に出入りし、権力者の前で演奏してご褒美をもらいまくっていたモーツァルト。マリア・テレジアからプレゼントされた衣装を着た幼いモーツァルトの肖像画は有名です。これが彼の”日常生活”だったのです。

また、父親がもらっていた莫大な演奏の報酬もモーツァルトは知っていました。だから相当小さな頃からお金に対しても、無意識にしろ”僕は特別。いつでもいくらでも稼げるのだ”と認識することは自然です。

幼少期に”向こう側の世界”でスターだった上に、大人になってウィーンで成功し、大金をつかんだことによりさらにお金を生み出すことは簡単だと楽観視しすぎた感じがあります。将来の不安への貯蓄などは頭をよぎることさえしなかったのでしょう。

借金を重ねながらも自分の高価な衣服を売ることさえしなかったモーツァルトはまた、生活レベルを落とすことができず失敗からも最後まで学ぶことができませんでした。金銭の管理を含む、生活設計の能力にも著しく欠けていたのです。変われなかった原因には、才能ありすぎたがゆえに周りからちやほやとされ続けた幼少期の影響と絶対的な自信がちらつくのは言うまでもありません。3


最後に。
金銭管理能力のなさが結果的に身を滅ぼした可能性が高く、それが幼少期の影響を受けていたとして、ここまで明白な逸材を目にした大人たちが彼にどのような教育をできたのか?また生活能力や金銭感覚をどの成長過程で、どのように身につけれたのでしょう?

無理でしょ。わがままにもなるでしょう、自信過剰にもなるでしょう。ザルツブルク一般市民の貧困なんて、全然関係ないと思っていたでしょう。それに多くの作曲家と違ってモーツァルトには”恩師”と呼べる人がいません。謙虚になる機会がなかったのです。
小さいころからこんなに別レベルだったらもうしょうがない。才能を潰さないためにはある程度自由に生きるしかないのかもしれません。

もしモーツァルトが破滅の道を避けられたとしたら。その方法はたった一つしかなかったかもしれません。
それは、もしモーツァルトが自分以上に大事に思う人と巡り合っていたら。アロイジア・ウェーバーが唯一それに近い存在だとして、もし彼女と一緒になれていたら。そして彼女にモーツァルトに欠けた管理能力を補う力があり、愛や信頼からモーツァルトに対し影響力があったとしたら。歯車がうまくまわっていたかもしれないですね。レクイエムも完成していたかもしれないしチェロのための曲も書いていたかもしれない。

はい、たられば。きりがないのでここまで。

まあ、そんなに全てうまくいくわけがないから人生は面白いのです。天才でも。

ザルツブルクの生んだ不滅の作曲家


この本は的確な情報を短くわかりやすくまとめてある良書です。モーツァルトが生きていたザルツブルクとモーツァルトの関係の歴史的背景が簡単に読めます。10か国語以上に訳されています。

次の記事:モーツァルトの商品化

Liebst du mich?

  1. ザルツブルクの生んだ不滅の作曲家
  2. Er wollte “alles haben was gut, ächt und schön ist.”
  3. https://ci.nii.ac.jp/els/contents110006284852.pdf?id=ART0008303672