ホモ・デウスの翻訳研究1【中国語】


人類が新たに取り組むべきこと

人类的新议题

1.3000年紀の夜明けに、人類は目覚め、伸びをし、目を擦る。恐ろしい悪夢の名残が依然として頭の中を漂っている。「有刺鉄線やら巨大なキノコ雲やらが出てきたような気がするが、まあ、ただの悪い夢さ」。人類はバスルームに行き、顔を洗い、鏡で顔の皺を点検し、コーヒーを淹れ、手帳を開く。「さて、今日やるべきことは」

第三个前年开始之际,人类醒来伸展手脚,揉了揉眼睛,脑子里依稀记得某些可怕的噩梦。「好像有什么铁丝网,巨大的蘑菇云之类的。但管它的呢,只是个噩梦吧。」人类走进浴室,洗洗脸,看看镜子里脸上的皱纹,然后冲了一杯咖啡,打开了记事本。「来瞧瞧今天有什么重要的事吧。」

動詞:  醒来,伸展,揉了揉,记得,走进,洗洗,看看,冲了,打开了

・中国語は時制が曖昧であることが多い。それに対し、日本語の文は一貫して現在形で書かれてある。3000年紀の夜明け=現在の私たち人類のことなので間違いなく現在形である。
日本語の「人類は目覚め、伸びをし、目を擦る」「バスルームに行き、顔を洗い、鏡で顔の皺を点検し」の部分は中国語でも現在形「人类醒来伸展手脚,揉了揉眼睛」「走进浴室,洗洗脸,看看镜子里脸上的皱纹」になっている。
しかしこの後の「コーヒーを淹れ、手帳を開く」は現在形のままの日本語に対し、中国語のほうは過去形「冲了一杯咖啡,打开了记事本」で表現される。理由は謎。この後も本のなかで「了」がどのように使われているのか注目していきたい。
しかし中国語の動詞のバリエーションは富んでいる: 揉了揉(V了V)、看看(V+V)、走进(V1+V2)など。

但管它的呢という表現の直訳は「気にするまでもないや」に近いと思う。「管+人称代名詞」や「不管+人称代名詞」はよく口語でも使われる。管他干嘛=気にしてどうすんの、とか不管她=ほっとけ といった意味。

 

2.その答えは、何千年にもわたって不変だった。二十世紀の中国でも、中世のインドでも、古代のエジプトでも、人々は同じ三つの問題で頭がいっぱいだった。すなわち、飢餓と疫病と戦争で、これらがつねに、取り組むべきことのリストの上位を占めていた。人間は幾世代ともなく、ありとあらゆる神や天使や聖人に祈り、無数の道具や組織や社会制度を考案してきた。それにもかかわらず、飢餓や感染症や暴力のせいで膨大な数の人が命を落とし続けた。そこで多くの思想家や預言者は、飢餓と疫病と戦争は神による宇宙の構想にとって不可欠の要素である、あるいは、人間の性質と不可分のものである、したがって、この世の終わりまで私たちがそれらから解放されることはないだろう、と結論した。

几千年来,这个问题的答案并没有什么改变。不管20世纪的中国人,中世纪的印度人,还是古代的埃及人,都面临着同样的三大问题 -饥荒,瘟疫和战争- 它们永远都是人类的心头大患。一代又一代,人类向所有神明,天使和圣人祈祷膜拜,也发明了无数工具,制度和社会系统,但仍然又数百万人于饥饿,流行病和暴力。许多思想家和先知于是认为,饥荒,瘟疫和战争一定是上帝整个宇宙计划的一部分,抑或是出自人类天生的不完美,除非走到时间尽头,否则永远不可能摆脱

動詞:  面临,发明,死于,认为,摆脱

・中国語は受動態が使われることが極端に少ないと感じる。最後の文「この世の終わりまで私たちがそれらから解放されることはないだろう」の部分は中国語では受動態ではなく「摆脱=抜け出す、脱却する」という動詞が使われる。

・またこの中で、2種類の四字熟語が出てきている(心头大患,祈祷膜拜)。中国語は四字熟語がとても頻繁に使われる。文法のバリエーションが少ないので四字熟語でもって表現の幅を利かせている印象を私は受けている。

走到时间尽头は日本語母語者にはなかなか出てこない表現ではないだろうか。この世の果て、したがって、この世の終わりという意味だけれども、走というのは能動態動詞で、歩くという意味だ。直訳は「時間の果てまで歩く」となりそうだが、時間の果てという表現は日本語にはないので、(時間を作った人間の住む世界の)この世の果てという意味になるのだろう。
恋愛関係にある人たちが言いそうなロマンチックな言葉にもなりそうだ。(陪你走到世界尽头という歌がある。)

単語表はこちら。

ホモ・デウス 上下合本版 テクノロジーとサピエンスの未来